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富山のニュース 【1月28日01時26分更新】
旧細入村にも源平物語 清盛に夫を討たれた姉妹眠る?
「お年寄りから、あるって聞いた」。案内を請うた蟹寺地区自治会長の高田敏成さん( 66)によると、「それ」は今は公民館になった旧慈眼院(じがんいん)裏の墓地にある 。 1メートル以上積もった雪をかき分け、掘り分けること1時間半。寄り添うように立つ 2基の五輪の塔が出てきた。高さは約50センチ。高田さんは、苔(こけ)むし、崩れか かっている2基を指し、「これが八重菊(やえぎく)、八重牡丹(やえぼたん)姉妹の墓 らしい」。 本当にあった。それにしても八重菊と八重牡丹って何者だ? 富山市猪谷(いのたに)関所館を訪ねると、加藤敏一館長が「伝承だけど」と切り出し た。 八重菊と八重牡丹は美濃国(現岐阜県)吉田の豪族の娘で、姉妹そろって源氏の総大将 ・源義朝(よしとも)の長男義平(よしひら)に嫁いだ。義平は新妻2人を吉田に残し、 清盛征討のために京に向かうが、反対に捕らえられ、1160(平治2)年、20歳の若 さで処刑される。夫を亡くした姉妹は嘆き悲しみ、源氏の身分を隠して京へ慰霊の旅に出 掛けたという。 目指す道は美濃から越中、そして京へ。加藤館長は「そこで2人はこれを使ったと伝わ っています」と綱につるした籠(かご)を指し示した。美濃、越中の国境(くにざかい) を流れる宮川を渡る「籠の渡し」。実際に1872(明治5)年まで使われた、綱を引き 26・4メートル先の対岸に渡る仕掛けである。 しかし、八重菊はこの「籠の渡し」から8・4メートル下の川に転落、下流で遺体で見 つかった。絶望した妹の八重牡丹も身投げし、若い命を散らしたという。その2人を弔う ために村の誰かが慈眼院に2基の五輪の塔を建てたというわけだ。村民は以降、「渡しを 使う人は誰であろうと助けよう」と申し合わせもしたそうだ。 胸を締め付ける悲しい物語である。でも、「裏取り」が記者の仕事だ。五輪の塔は本当 に八重菊と八重牡丹の墓で、平安末期、12世紀のものなのか。 鑑定をお願いした富山市埋蔵文化財センターの古川知明所長によると、塔には文字らし いものはあっても判読できず、従って八重菊と八重牡丹の墓とは判断できない。塔を構成 する部材は平安末期のものではなく、火輪(かりん)は14世紀、その上の空風輪(くう ふうりん)は15世紀以降、土台にいたっては江戸期のものとみられる。 悲劇の物語を聞いていただけに、何かがっかりだ。「しかし」と古川さん。「八重菊と 八重牡丹の死後、村人が慰霊碑として建て、古くなった部材を替えて守り継いできたこと も考えられます。墓の可能性もある。今となれば否定もできませんよ」。 もう確かめる術(すべ)がないなら、やはり姉妹の墓と思いたい。蟹寺には、命を賭( と)して渡った「籠の渡し」の史実もあり、歴史ロマンがふさわしい。この地を踏んだ、 また生きた先人を思って、雪が降りかかる五輪の塔に手を合わせた。 源義平(1141〜1160) 源義朝の長男で、頼朝、義経の異母兄にあたる大将。 別名を悪源太義平。「平治物語」では主人公の1人の若武者として描かれ、少ない軍勢を 率いて1159年の平治の乱で平氏の大軍を相手に奮戦した。その勇猛さに感心した美濃 国吉田の豪族左兵衛尉某が差し出した娘、八重菊、八重牡丹姉妹を妻とする。 平治の乱で戦死した父義朝の弔いも兼ね、清盛を討ちに京都に向かったが、1160年 3月、逆に六条河原で斬首された。
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